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ハセガワです。
見渡す限り、大人も子供もみんな病んでいるようで、10年くらい前に誰かが言っていた、「日本総鬱病化時代」というのがいよいよ現実味を帯びてきました。私の周りにも、老若男女問わず、心に風邪をひいてしまった人がたくさんいます。私自身はどうかというと、まあたまには不安になったり落ち込んだりもしますが、そんなことを言っているヒマねえよ、というのが正直な気分です。
今のワカモノはプレッシャーに弱い、という意見を見たり聞いたりしますが、あまりそうは思いません。私だって20歳の頃はプレッシャーにはとても弱かったもの。それはいつの時代だって各個人の資質によりけりでしょう。
弱っている人に「頑張れ」は禁句、とよく言います。
本人は頑張ってるつもりなのに「頑張れ」って言われると、とても自分がダメな人間のように思えてしまうから、とか。
頑張れって言うのはとても簡単で、お茶濁し的に使われる言葉でもありますから、大して知りもしない人に言われても何とも思いませんが、私は例え適当でも、そう言われるのはイヤじゃなかった。むしろ、どうにかして私のことを見てもらおうと、必死になっていた気がします。
私たちは結局、本音を好みません。大多数の人が、何とかなあなあで生きていこうとしてしまいます。そこに多少の嫌悪感を覚えつつも、余計な軋轢を避けたいと思うのが普通です。仲の良い友達と、飲み屋で語りあう「本音」ですら、「ちょっと前」までの形ばかりの本音でしかなく、私は私の本音が何なのかさえ、こうしてゆっくり考えてみてもわからないほどです。そして何が本音なのか、と疑ってかかることに、今ではあまり意味を見いだせません。
ただ、それでも。
本音であろうがなかろうが、私は生徒に向かって「(適当に)頑張ってね」と言うことにしています。そんなありきたりな言葉で人を鼓舞できるわけはないのですが、頑張って欲しいと思っているのは、多分本当。でもただひたすら真面目にやる、ということではないと思います。頑張って考えて欲しいのは、私の授業などではなく、自分自身という不可思議な存在、に対して、でしょう。
私にとって、学校は時間の使い方を学ぶためだけの場所だったような気がします。そしてどうにも気が向かない日には、一日中、これから何をすれば楽しくなれるのか、楽しくない気分満載で考え込んでいました。先生の言うことに素直に従ったことはありませんでしたが、自分自身からは決して逃げられないので、自分をわざと追い込むため、ムダに反抗していたのだと思います。
もしかしたら、「頑張ってね!」というのは、自分に言い聞かせているのかもしれません。
楽するのはイヤなのに、楽な方へ寄りかかりたくなる自分を戒めるためにね。
そういう意味では、頑張れ、と言い続けることにそれほど抵抗を感じないのです。